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パキスタンフンザ王国旅行記

 

2010年8月9日 成田14:00離陸 同日イスラマバード20:00着。 

旅行エージェントのパキスタン人アズマートさんに会いホテル泊。

 

アズマートさんは、日本語が上手く、会話は何も困らなかった。旅行後も友人関係となった。

また、貴重な大きな石仏を購入するきっかけともなった。なお、フンザ王国で、特に王宮についてはとても詳しく聞いてきたことを文末近くに詳細に書いているので、ひょっとすると歴史的価値があるかもしれない。

多分当時、英語で聞いたのを日本語に訳してメモしたのだろう。

随分昔に行ってきたと思っていたが、僅か8年前だった。でも、8年経つと、かなり変わることもある。

 

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写真1枚目はパキスタン奥地。ギルギット付近。

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暑い場所に適応か、細長いネコ。パキスタン イスラマバード

 

 

8月10日

背の高い8人乗り位の車の後部にドラム缶と20リットル缶4本にガソリンを満載して出発した。目指すはパキスタン最奥のフンザ王国であった。

カラコルム街道を上るが、メインの橋が2箇所とも跡形もなく流されており、途中から幹線道路を離れ、東側の旧道で行くこととなった。

 

パキスタンの洪水は信じられない位スケールが大きいようだった。上流に行くに従い、途中で道路が半分削られて崩壊している現場も多々あり、3時にNARAN 着。

山の上の湖を見学することとした。

更に進むと、あいにく上方でも登山道路が流され、砂や砂利状の斜面の傾斜が大きく極めて危険であると判断して、撤退することとした。この先のルートは徒歩でも通れないような道路であった。

 

パキスタンの気象は想像を絶する規模で、今回の大洪水で数千人が住む川沿いの村が、むしろ川の中にあったと形容すべき村が、半分以上、跡形もなく消えてしまった。

勿論、これらの家に住んでいた方は、残念ながら全員死亡。その場所を見ながら、解説を聞きながら通過したが、言ってみれば1キロ位の幅がある川が蛇行し、流れの緩やかな片方が高さ100m位ありそこに村があった。が、洪水で半分くらい流されてしまった。

信じられず、何度も聞き直した記憶がある。

のっけから容易ならざるスタートであった。当時、パキスタンの記事は海外の事でもあり、日本の新聞では、面積的に小さく報じられたに違いない。

ヒマラヤから延々と流れ下る激流、余りに規模が大き過ぎ、道路情報なども信じがたい情報であった。

 

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写真1:大河に沿った高さ約100mの中州に建てられた家々や畑がこの年の大雨で流され3,000人位亡くなった。段差が分かりにくいが、手前の高台には奇跡的に助かった家と畑。更に1キロ位上流には、流された巨大な橋の残骸がかすかに望見される。




 

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写真2:気の利くアリ。大変助かった。彼は今頃どうしているだろう。  

 

 

この旅行記を書いている2018.12.2 ネットで検索したところ、下記の4行の見出しが出てきた。

なんと、丁度我々がパキスタンに足を踏み入れた8月10日頃、80年で一回と言われることになる大洪水が発生していたのだ!!!

 

当時から、これを書いている本日までの8年間、世界的・歴史的大洪水だったとは知らなかった。

むしろ、日本にいればテレビなどで認識していただろう。帰国後聞いたのかもしれないが新聞は見た記憶なく、勿論テレビでの放送も見た記憶は無い。

それにしても、アズマートさんはよく我々の旅行を請け負ったものだ。

でも大災害現場をこの眼で見ることができた。貴重な経験と言えるかもしれない。

最近の日本の台風も巨大化しており、パキスタン同様、警戒と対策が大いに必要となった。

 

参考までに以下5行が、当時の国連発表記事

【2010/08/13 掲載:ここ80年で最悪と言われる洪水がパキスタン北西部で発生してから、およそ6ヶ月が経過しました。WFPは洪水発生直後から食糧支援を開始。

およそ520万人に食糧支援を行いました。現在は、被害状況に合わせて、インフラの再建など社会、、、、。 

パキスタン大洪水 国連WFP パキスタンの歴史に末永く残る大洪水だったのだ。

 

3時にNARAN 着。

この山の上にある湖を見学することにした。

あいにく、上方でも登山道が流され、砂や砂利状の斜面の傾斜が大きく、この先のルートは

徒歩でも通れないようだった。

 

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写真1:古代人の書いたものらしい絵画

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写真2:拡大すると岩に書かれた古代人の絵が浮かび上がります

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写真3:大洪水のあった川

 

8月11日

早朝停電の中、小型懐中電灯でこれを書いている。まず、正確な道路情報が必要。新聞、ラジオ、テレビなどの情報なきや? アズマートさんは主として友人、知人、関係者と携帯で情報収集している。

本日も芳しくなく、Chilasまで何とか行った。その先、ギルギットへは行けず、戻ろうとしたが、戻るのも困難となった。午前中急な坂をジープで登ると360度の視界が広がり、Malika Porbat の見える高原に出た。

小さな坊やと一緒に写真撮り、お礼に当社のボールペンをあげた。更に数百m登った。

はるか彼方に氷河のある高い山が望見された。少し戻り、ティータイム。85才位、案内所に勤めていた老人で現在は2つのホテルを持ち、成功している人に会った。

会った時、がっしりと握手。信頼を持たせる人柄の故か。

 

午後、再びSaiful Maluk 湖へジープで行った。一歩間違えば千尋の谷の連続。

しかし運転手もアズマートさんもどこ吹く風。特に氷河部分は僅か一日で大きく縮小、極めて危険。

帰りがけ、遠くから見ていると、一台のジープが登ってきた。

5〜6人降りて何とか通過。但し一人の老人が蒼白で唖(おし)の様に、手まねで石を置け!と言っていた。

私と成尾さんとアズマートさんの三人で石を置き、帰り無事通過。両親が見たら卒倒する様な場面かも。

 

この湖であるが、この時期ジープで湖畔の斜面が一杯になるところ、交通遮断の影響で、ほんの数台のみ。

歩いて一周。氷河。遊牧民から馬を借り、浅い川を横断。私はかなり乗馬に慣れており、「日本人か?」と聞かれた。

そういえば脱線するが、以前会社員の旅行で左手にたずな、右手の缶ビールを飲みながら「ホリャー!」

と奇声を発しながら馬を走らせたことがある。馬主が、唖然として「あなたの様な人は初めて見た」と、驚かせてしまったことがある。

なぜか私は犬や馬とは瞬間的に仲良くなることができる。コツは、笑顔で眼をみて、声を掛けながらやさしく撫でて、しかし威厳は失わず、私が主人だというよに接する。そして、走らせる時は気合一閃「ホリャー!」等、何でもいいので馬を制御するのがコツだ。馬は人を見ている。パキスタンと米国西部はどこか似ている。

未開の土地、馬、荒れた草原。すっかり脱線してしまった。

 

パキスタンの馬は一般的にインドネシアの馬同様、小柄で乗りやすい。言うことを良くきく。馬は人を見ている。

案内した75才位の「老人は氷のように冷たい川を平気で渡る」「お金を頂戴!」と、「ペッソディードナ!」と無心する7才位の2人の女の子がジープを追いかけてきて、困った。

代わりにキャラメルをひと箱後ろへ投げた。

 

晩、ホテルに戻り、状況分析。道路で行くのは無理と結論。

直ちにイスラマバードへ戻り、空港隣接するアズマートさんの自宅で短時間仮眠。

 

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写真1:小さな坊や

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写真2:湖畔

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写真3:気の利くアリとこのジープでイスラマバードからKAEIMABAD(フンザ王国)まで行った

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写真4:廃墟となった元レンガ工場